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日本人はるかな旅 第2集 巨大噴火に消えた黒潮の民 
日本人はるかな旅 第2集 巨大噴火に消えた黒潮の民 よりメモ


::プロローグ::

黒潮にのって12000年前やってきた民がいた。

彼らは南九州で独自の文化を形成

しかし薩摩硫黄島(鬼界カルデラ)の噴火

火山灰によって集落は埋め尽くされ姿を消す 


::南九州の巨大集落::

鹿児島 桜島 1997年に発見された 上野原遺跡(9500年前)

鬼界カルデラの噴火火山灰より下の地層にあった

弥生時代になってから一般的となったとされた壺型土器も出土(5000年以上早い)

他にも、波をうつような文様、アカガイやハイガイの貝殻による文様の土器が確認された。

彼らは海とのつながりの深い民族であるようだった。


鹿児島・栫ノ原遺跡から出土した丸ノミ石斧(せきふ)  (12000年前)

刃先が丸く、木をくりぬくのに適し、丸木船をつくる道具と思われる。

宮田栄二(実験考古学) 鹿児島県埋蔵文化財センター

丸ノミ石斧 は鹿児島だけでなく、より南の場所からも出土 沖縄・国頭村等

南九州~沖縄一帯から 丸ノミ石斧 が分布

その周辺の海を行き来していた民が浮かび上がる

沖縄本島 具志頭村  港川遺跡 1970年に石灰岩の採掘場から 日本最古のほぼ完全な人骨が発見される

それは18000~16000年前の人で 港川人と名づけられた

馬場悠男 国立科学博物館 人類研究部長

港川人はアジアのさらに南からやってきたのではないかとする。

インドネシアのワジャク人の頭蓋骨と共通点が多い。

港川の人々は南方との交流が多かったのではないか

::幻の大陸 スンダランド::

インドネシア ジャワ島中部のワジャク村

この村の断崖のワジャク洞窟  

1889年 オランダの人類学者デュボワがワジャク人の骨を発見

F.アジズ博士(古生物学)インドネシア地質研究センター

地球が氷河期だったころ、ジャワ島は他のアジアよりも暖かく快適で大型動物が沢山いた

モーレングラーフ博士 オランダ地質学者 今から80年前 ジャワ島海底地形に川の痕跡発見

これによりジャワ島や東南アジア一帯は陸地だったことが判明。

幻の大陸『スンダランド』の存在が明らかになる。

港川人もスンダランドの末裔である

ボルネオ島 ニアー洞窟 (スンダランド北部) 30000年前以降に人々が暮らした痕跡が発見される

ニアー洞窟は東京ドームがふたつはいるくらい巨大

1954年に洞窟入り口付近から大量の動物の骨が出土

獲物の骨(サイや鹿)

::海に没したスンダランド::

20000年前の温暖化でスンダランドの大部分は海水面上昇によって水没

アラン・ソーン博士(人類学)元オーストラリア国立大学

スンダランドのあった海域周辺の島を調査した

現地の人々が竹をボートのように扱う高い技術を持っていると気付く。

スンダランドの人々は竹を使って海へ漕ぎ出したのではないか。

スンダランドには大河が流れていた。

彼らは川くだりの技術として竹ボートを開発、やがてその技術を応用し海へ漕ぎ出した。


現代に残る海洋民 バジャウ族は 彼らは海の知識が豊富で、最近まで船を住まいにしていた。

バジャウの人々は600キロも離れた海へ漁に行く。

長い時間をかけて海に対する知恵を身につけたスンダランド人は、竹から丸木舟に乗り換え

スンダランドからオールトラリアやフィリピンへ四方にちらばっていった。

フィリピン 北東部ポリリョ島 にドゥマガットという人々がいる

ドゥマガットは 海から来た民 の意

遺伝子分析により、スンダランド水没直後にやってきた人々と判明。

スンダランド水没後の海洋漂流民たちはフィリピンから沖縄までの1300キロの大海原を渡った。

彼らはフィリピン沖で発生する黒潮を利用し大海原を渡る。

フィリピン パラワン島 から丸ノミ石斧 (4000年前)が出土した。

これは沖縄と共通。

黒潮文化圏の存在を示唆。→丸ノミ石斧研究家 小田静夫(考古学)東京都教育庁文化課


::黒潮の民 北へ::

馬場悠男 国立科学博物館 人類研究部長は 港川人と現代日本人男性を比較した

港川人 の特徴として 背が小さく肩が華奢である。 力仕事苦手? しかし足は丈夫、動き回れて採集がとくい?

彼らの骨を分析するとハリス線が確認された

ハリス線は栄養失調で成長が止まってた証拠

沖縄にいたリュウキュウシカは他の鹿の4分の1くらいしかない

沖縄の港川人は飢えと隣り合わせだったようだ。

しかし、当時は九州へ渡りにくい状況だった。

寒冷期 冷たい親潮によって黒潮は日本列島を避けて太平洋へ流れていたため。

しかし、やがて温暖になって、黒潮が流れを変えて本土側、南九州にも到達した。

黒潮の民がついに南九州へ到達する。

南九州は暖かい黒潮によって照葉樹がしげっていた

食料となるマテバシイ、スダジイ、ヤマモモなども多彩にあった。

こうして安定した食料を獲得した。

彼らは上野原に巨大な規模の集落を日本で初めて作った

こうして海洋漂流民は移動生活から定住生活へ変わっていった

上野原で見つかった木を伐採するための石斧

これは丸ノミ石斧と共通する技法だった。

石を打ちつけて尖らせていく 敲打技法 と砥石で仕上げる技法

海の道具の技術が、森の道具へ転用されていった。

上野原の7500年前の地層 たかさ50センチの大きな 壺型土器 が出土

壺型土器は一般に弥生時代2300年前に広まったと考えられていた。

新東晃一(考古学) 鹿児島県立埋蔵文化財センター

壺方土器は弥生時代に稲の貯蔵に使われていた

つまり上野原でも稲のような穀物類の栽培が栽培され壺型土器に貯蔵された可能性がある

古環境研究所 上野原遺跡の土を採取しプラントオパールを分析

プラントオパールとは植物細胞のなかにあるガラス質の物質

形の違いによって植物を特定できる

上野原遺跡から 雑穀とみられるプラントオパールがでてきた 

ヒエ属 ジュズダマ属(ハトムギなど) エノコログサ属(アワなど)

彼らは南九州で豊かな生活を営んでいたと思われる


::消えた黒潮の民の行方::

6300年前 鹿児島沖の海底火山 鬼界カルデラの大噴火

海底に噴出したマグマによって大爆発

噴煙は高度3万メートルにも達した

火山灰で上野原の集落は埋もれてしまった

しかし黒潮の民はすべて滅んだわけではない

黒潮の延長の土地に痕跡が見つかる

高知県 大正町 四万十川のほとり 木屋ヶ内遺跡 で磨製石斧が出土

また貝殻文様の土器も見つかった

それらは、ほかの縄文土器と一緒に見つかる

黒潮の民と他の民が一体化していた

おなじく黒潮の流れる 和歌山 折田町遺跡からも磨製石斧が出土

港川人と縄文人の頭蓋骨の分析 遺伝的要素が縄文人に受け継がれている

多摩ニュータウン遺跡№72 から縄文土器に混じって磨製石斧がみつかる


南と北の知恵が交じり合い、縄文文化の礎を築いていったのだ。
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